部屋の前には誰もおらず、室内にも人のいる気配はなかった。だが一応ノックをして返事がないのを確かめてから、マナリルはそろりと団長の部屋へ滑り込んだ。
「構わねえ」とリードァは言ってくれたが、それでもやはり緊張する。借りているのが普通の本であればタイミングが合った時に渡すのだが、<書>であるならば暇を見つけて返せば良いというものでもない。
それでも。
マナリルは部屋の中央に立って辺りを見回し、途方に暮れた。
それでも……部屋にポンと置いていくのも無用心だ。団長の部屋の外にメイベルがジェイルがいるだろうと思っていたのだが、2人ともいないことは考えていなかった。誰もいない部屋に置いておくのは気が引ける。かと言って、部屋で待っているのもどうなのだろう。いささか図々しすぎやしないだろうか。
「あ、そうか」
思わず声が出る。部屋に戻しておいて、自分が部屋の外で見張りを買って出ればいいのだ。
思いついてみれば単純なことで、安心したマナリルは改めて室内を見回した。
ベッド脇の棚に本が並んでいる。それなりに分厚い本が並んでいるのを見て読書好きなのかしらと考え、くすりと笑った。本を読むリードァ。正直、あまり想像できない。
そう思いながら興味本位で背表紙を目で追うと、さらにくすくすと笑いがこみ上げてきた。
交易の手引きが3冊もある。これなら、読んでいる姿を想像できる。交易好きのリードァらしい。
1冊分の隙間があるのに気がついて本を戻そうと手を伸ばしたが届かず、「すみません」と小さく呟いて、念のために服の埃を払うと靴を脱いでそうっとベッドに上った。
本を戻そうとしたマナリルは、そこでふと手元に視線を落とした。
借りてきた『輝ける遺志の書』。
あれからいろいろ試してみたが、結局何もわからなかった。あの時、一瞬だけ胸に襲いかかってきたのは叫びたくなるような哀切の情だった。本から伝わったものだと思っていたが、気のせいだったのだろうか。
哀切の奥に別の感情もあるように思ったのだが。
「……なんだったんだろう……」
本の背表紙を撫でながら独りごちる。
書を抱えたまま、ころんと横になってみると、ほかほかの布団からは太陽の匂いがした。
いや。太陽がよく似合う、あの人の。
「(……リードァさんの、匂い)」
横になったまま、もう一度書を眺める。
きゅっと抱き締めてみると、なぜか突然――抗いがたい眠気に襲われた。
*********
夢を見た。
見たことのない、小さな村だ。
白い土壁に木製の扉と屋根。白と茶色で出来た建物は一つひとつがちんまりと小さく、それぞれが土ばかりの庭に囲まれていた。庭では鶏たちがエサをついばんでおり、中には牛や豚がいる家もある。
郊外には草で覆われた広場があって、さらにその外側に畑が広がっていた。転々と小さな赤い点が散らばっているのが見えるが、あれはきっとトマトの実だろう。
ふわふわと漂っていたマナリルの意識は、広場へ戻ってきた。
穏やかな草原が広がり、その外れには林というほどでもない程度に木々が立ち並んでいる。穏やかな太陽の日差しもこの一画だけは遮られ、柔らかな日陰がいくつもできていた。
その中でも一番の大きな木陰に、一組の男女がいた。
幹によりかかるように座っている女性が胸に抱いているのは赤ん坊。低く歌を歌いながら抱いている子の背中をぽん、ぽんと優しく叩いている。
男性の方は、女性の膝に頭を乗せていた。顔は赤ん坊に隠れて見ることができない。
「おーい。尻が俺の顔に乗ってるぞー」
ふいに聞こえた男性の声に、マナリルの胸がどきんと鳴った。
「あなたが無理やり膝枕なんかするからでしょう。おむつはどう?」
「尻の匂いをかがせるなよ…。うん、まだ大丈夫。坊主、父さんの顔の上でもらすんじゃないぞ」
男性の言葉に、女性はころころと明るく笑った。
「腕が疲れ始めたところだから、ちょうどいい高さに台があって助かるわ」
「ああ、だったら代わるよ」
「まだ大丈夫よ」
「いや、気づかなくて悪い。交代で抱っこしようって言ったのに」
身体を起こした男性が赤ん坊を受け取る。
両手が自由になった女性は、こてんと頭を男性の肩に乗せた。
「いい天気ね」
「久しぶりにのんびりするな。こいつが生まれてからバタバタしてたし……」
2人は頬を寄せ合うように赤ん坊の顔を覗き込み、同時に微笑んだ。
「かわいいなあ…」
「かわいいわね」
「こんな小さな指にも爪があることに、いまだに感動するよ」
「しかも伸びるんだものね」
「爪きりをするのが怖い。指まで切ってしまいそうだ」
「……ですって。父さんには絶対に爪きりを頼まないから安心しなさい」
女性がくすくすと笑う。
「でも爪きり以外だったら何でもするぞ。……お前と母さんは、父さんが何があっても守ってやるからな」
「私も守ってあげるからね」
女性の言葉に、男性はがっくり頭を垂れた。
「そこは素直に守られてくれよ」
「嫌よ。剣の腕だって同じくらいじゃないの。2人で一緒に守りましょう? この子のこと」
「……そうだな」
男性が顔を上げる。
まともにこちらを向いた顔を見て、マナリルは息を飲んだ。
「俺は、この子とお前を守る」
「私は、この子とあなたを守る」
「愛する家族3人で、ずっとこうしていられるように」
妻と顔を見合わせ、そう言って優しく笑ったのは――あまりにも見覚えのある顔だった。
*********
別の場面にとんだ。
戦場だ。
土ぼこりが舞い、剣戟と怒号が飛び交っている。
互角に戦っているようだが――なんて、アンバランスな戦いだろう。
揃いの鎧に身を包んで一糸乱れぬ行進をしてくる大軍に対し、片方はあまりにも少人数だった。10数人程度しかいないのではないだろうか。着ている鎧や防具もバラバラだし、扱っている武器も人によって全く違う。
それなのに互角に見えるのは、少人数の方の一人ひとりが精強だからだ。皆――星の印を持っている。
これは、ひとつの道の協会と星を宿す者との戦いだ。
いつかどこかであった、マナリルの知らない戦い。
いや、どこか…ではない。これは、今はもう消えてしまったあの世界の出来事だ。
あの世界の、過去の光景を見ている。
星を宿す者たちの先頭に立っているのは、あの女性だった。
腰まである長い髪を鎧の下へ収め、大きな剣を軽々とふるっている。
一払い、彼女が薙ぐたびに、揃いの鎧を着た兵士が宙を飛んでいく。
マナリルには剣のことは分からなかったが、彼女の動きは荒々しくも美しかった。
「≪星の兵団≫の戦士たちよ、私に続け!! 未来は定まってなどいない。秩序に縛られた者たちを解放する!! 彼らの虚妄を打ち破るのだ!」
「おおおおお!!」
彼女の声に、星を宿す者たちが呼応して叫び声を上げる。
だが、 「行くぞ!!」 と叫んで剣を構えようとした彼女は――次の瞬間、棒立ちになった。
「あ…」
「団長っ!」
何人かが同時に叫び、彼女は慌てて剣を構えようとする。だが、一瞬だけ生じた完全な隙を、敵は見逃さなかった。
「う…ッ!」
「団長!!!」
「――!!」
槍で身体を貫かれた彼女に向けて、いくつもの悲鳴混じりの声が上がる。
星を宿す者たちの集団は明らかに動揺していた。その機を逃すまいと、大軍がいっせいに勝ち鬨の声を上げて追撃のために動き出す。
その時――大軍の一画にいた兵士たちが吹き飛んだ。
そこから一人の兵士が飛び出してくる。真っ直ぐに女性のところまで駆けてくると、辺りをはばからない大声で彼女の名を叫びながらその身体を抱きかかえた。
ひとつの道の協会によく似た鎧――その下にあるのは、彼女の夫の顔。
「(どうして!?)」
マナリルが心の中で上げた叫び声を、協会の鎧を着た男性が繰り返した。
「どうして…何をしてるんだ。どうして!!」
「あなたを連れ戻しに来たのよ……。3人で、一緒に……過ごすんでしょう?」
「あの子はいなくなったんだ。死んだんだ。秩序の下で、そう決められていたんだ!」
「……死んで……ないわ。いなくなっただけ……」
2人をかばうように、その前にざっと3人が並んだ。
――彼らの顔も、マナリルは知っている。以前書の幻で見たことがある、別世界の”彼ら”だ。
「とりあえず目的は果たした。……退散するぞ」
「分かってる。殿は私が引き受けるから」
ジェイルによく似た男性とマリカによく似た女性剣士が口早に言い交わす。
それに対して、リウによく似た黒い服の魔道士が 「…いや」 と顔を歪めた。
「…あの傷では助からん。この場で最後まで会話させてやるんだ」
「ちょっと!?」
「時間を稼ぐ」
黒い服の魔道士が、ぐいと他の2人を押しのけるようにして一歩前へ出た。ぎり、と歯を鳴らして目の前の大軍をものすごい形相で睨みつける。杖を握る手が、かすかに震えていた。
「……貴様ら、許さん。よくも……決して、決して許さんぞ…!」
魔道士が吼える。同時に十を越える雷撃が大軍に向かって迸った。
マナリルは、3人の背に向かって女性が微笑んだのを見た。
「……ごめんね。ありがとう」
戦場の喧騒にかき消されそうな、小さな小さなささやき声。
そして澄んだ瞳を、自分を抱えている男性に向けた。
どうしよう。
この人が、この女性が、死んでしまう。
どんなにもどかしくても夢を見ているだけのマナリルには何も出来ない。
「(どうしよう。どうすればいいんですか…私に何か出来ることは…!)」
「伝えて」
女性の声が凛と耳に響き、マナリルはハッと顔を上げた。
薄い、グレーの瞳がこちらを向いている。一瞬だけその澄んだ瞳と目が合ったような気がしたが、彼女はすぐに男性へと視線を戻した。
「伝えて、あの子に。……大切な……大切な、私たちの子に」
「だから…!」
女性は首を振ろうとし、苦痛に顔を歪めた。
「……あの子が落ちたのは、トビラだわ。だから…他の世界で……生きてる」
「何を言ってる!?」
「伝えて。…私はあなたを、愛していると。覚えてなくて…いい、恨んでても…いい。けど…私は、あなたを…、愛してる、と。……伝えて」
「……わ、分かった……」
「あなた…話を聞いて、ね。私たちのために……今、戦ってくれ…てる、あの3人から。私の…想いは……彼らが…知ってるから……」
「わかった。わかったから喋るな! 手当てを…」
「愛してる。…あの子も、あなたも……」
「俺もだ! お前の想いは全て受け継ぐから、だから…!」
女性が微笑む。
微笑んだまま瞳を閉じて――…マナリルの見ている光景が、霧がかかったかのように急速に白くなっていった。
男性の絶叫がその向こうからかすかに聞こえてきたが、それも遠ざかっていく。
真っ白に塗りつぶされていく世界で、女性の声が響いた。
愛している。
愛している。
愛しいあなた。
愛しい我が子。
どんな宝物よりも大切な、あなたたち。
どうか――
幸せでいてくれますように。
笑っていてくれますように。
愛することと愛されることを知っていますように。
どうか、この想いが伝わりますように。
百万世界のどこかにいる、あの子へ――――…
「(伝えます!)」
こちらの声が届かないことは分かっていたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
声は、出そうと思っても出ない。
それでも真っ白な空間に向かって、マナリルは何度も叫んだ。
「(伝えます。きっと、伝えますから……!)」
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