つづき
深い、深い湖の底にいるようだ。光が湛えられているような、明るい湖。
自分を包み込む感触は温かい。
そこから、ふわりふわりと、漂うように意識が浮かび上がってきた。
ふうわり。
ふうわり。
少しずつ覚醒へと近づいていく。
身体を包み込んでいる感触が陽だまりのような温かさから柔らかな布地のものへと変わっていく。
眠っているという意識は形作られず、ただそういう状態にあるのだということを感じる。
言葉の形をなしていなかったものが、少しずつ思考という形に組み合わさっていく。
ふうわり。
また少し覚醒に近づき、そこでようやく眠っているのだなということを意識した。
もうすぐ、意識が湖面まで浮かび上がってきたら自然に目は覚めるだろう。
「……マナリル?」
自分を呼ぶ声。
それは湖面に拡がる波紋のように、少し遅れてマナリルの元へ届いた。
ささやくような、少し低い声。
温かくて、優しい声。
…ああ、安心する。母とも兄とも違うけれど、この声を聞くと——…
「っっ!!」
そこで、マナリルは勢いよく飛び起きた。
眠りから覚醒へいたる浅瀬から一気に目覚めた頭は、飛び起きた勢いで一瞬くらりと貧血を起こした。
だが構わずに辺りを見回す。
壁にかけられた大きな布、身体の下にある真っ白な布団、ベッド横の本棚、自分の部屋とは違う木目調の床、大きな窓から差し込む朱を帯びた光、……そして突然身体を起こしたマナリルに驚いたように目を見開いている、この部屋の主。
リードァを認めたマナリルの顔から、一気に血の気が引いた。
寝てしまっていた。
こともあろうに団長のベッドで。しかも、ぐっすりと。
改めて確認するまでもなく、既に日暮れ時だ。————つまり、かなり長い時間寝ていたことになる。
リードァが午後の予定を消化して部屋に帰ってくるくらいには。
ベッドに片足をかけるようにして座っていたリードァは、すまなそうな表情になった。
「わりぃ、起こすつもりじゃなかったんだけど」
「い、いいえ! 起こしてくださってありがとうございます! すみません…!!」
「? なんで謝るんだ? 悪いことしてねえだろ」
不思議そうに首をかしげたリードァは、すっと片手を伸ばしてきた。
「それより、ヤな夢でも見たか?」
「…え?」
身体が固まったマナリルの頬に、リードァが触れる。
彼の指が涙をぬぐい、それで初めて自分の目から涙がこぼれていることに気がついた。
自分の手で涙をぬぐおうとして、マナリルはハッとして腕の中を見下ろした。
——まだ、『輝ける遺志の書』をしっかり抱き締めたままだ。
戻りかけていた血液が、再びさーっと顔から降りていくような気がした。
「す、すみません……! 私ったら、書を抱えたまま……!!」
「そんなの、いーって。オレも時々枕にしちまうし」
リードァは軽く笑い飛ばすと、マナリルの頭に手を乗せた。
「それより、やっぱり疲れてたんだろ。よく寝れたか?」
「あ、は、はい。あの、本当に…」
「なら良かった!」
謝罪の言葉を断ち切ってリードァが笑う。
それだけでは足りなかったのか、頭に置いた手を動かして髪をくしゃくしゃと乱暴になでた。
そんなことをすれば当然、カチューシャがずれる。
「おっと」と慌てたように戻そうとしたが、リードァが手を動かせば動かすほど、マナリルの頭は悲惨なことになっていった。
「あの……自分で直します」
「お、おぉ、わりぃ。うーん、ディルクがやるみたいにやったつもりなんだけどなぁ…?」
ぶつぶつと呟きながら、宙で円を描くように手を動かして首を傾げる。
マナリルはくすりと笑いながらカチューシャを外し、手櫛で頭を整えた。
そして再びカチューシャを手に取り、頭につける。ふと気がつくとそんな様子をリードァが興味深そうな目で見ていて、思わず顔が赤くして俯いた。
そっと視線を上げると、目が合ったリードァがにかっと笑いかけてきた。
「(…ああ、やっぱり似てる)」
リードァが身に着けているのは、『輝ける遺志の書』に出てきた彼によく似た鎧だ。
以前から似てるとは思っていたが、改めて見ると彼とリードァは本当にそっくりだった。声も容姿も——特に、まだ村にいた頃の、若い時の彼に。
そして、——初めて気づいた。リードァの瞳は、あの女性によく似ている。
自分の命が尽きようとする時にも、希望を見失わないで微笑んでいられた、あの人。
「……リードァさん」
「ん? どした?」
「夢を、見てたんです。さっき」
固い声に、リードァの表情が変わった。マナリルが抱えている書にちらりと目をやる。
ベッドへ上がって正面から向かい合う格好になると、あぐらをかいた上に両手を置いた。
「うん」
「女性の方が出てきました。書の幻に出てきたあの方の……奥さま、かと」
リードァの片眉がぴくりと上がる。
意外そうな表情を浮かべたが、問い返すことはせずに、ただ「うん」と頷いた。
マナリルは、ぽつりぽつりと記憶をたどるように話し始めた。
郊外に畑が広がる小さな村のこと。
その村に暮らしていた若夫婦のこと。
夫婦の間に生まれていた赤ん坊のこと。
リードァは急かすことも口を挟むこともせずに聞いていたが、話が女性の死に差しかかったところで片手を上げて話を止めた。
「マナリル」
「はい?」
「つらそうだぞ。全部言わなくてもいい」
「いいえ!……リードァさんに、伝えないと。あの人が……あの方が……」
マナリルは唇を噛む。そうしていないと、再び涙がこぼれてきそうだったからだ。
伝えなくちゃ。
あの人の言葉を伝えたい。
お母様は最期まで我が子のことを気にかけていたと——…
……だが、そんな母という姿は、マナリルにとって別の面影を脳裏に浮かべさせてしまうのだ。
「(…お母様。お母様も、最期の瞬間に私のことをそう思ってくださったのでしょうか)」
夢の中で感じていたやりきれない思いと、どうしても振り払えない自分の感情が、口を開いた途端に涙と一緒にこぼれ落ちていく気がしてしまう。
伝えなくてはいけないのに。
この人に。
あの2人にとって最愛の息子である——目の前の、この人に。
必死の顔になって口を開け閉めしているマナリルを見て、リードァは困ったように笑った。
「マナリルの気持ちは分かるから、今はすこし休め。な?」
「で、でも!」
「……その女の人な。オレも見た」
「えっ!?」
リードァはついと窓に目をやった。目を細めてどこか遠くを見つめる表情になる。
「…肩くらいの長さで茶色の髪をしてる人だろ。やせてて、小柄で。目の色は灰色」
「えっ、は、はい。…リードァさん?」
マナリルへ視線を戻すと、リードァは顎の下をかいた。
「昼に、星の印が変わった時に幻の続きが見えたって言ったろ? その続きで見たんだ。空色の鎧の……”あの人”が最後の一人になってたんだけど……そこで、一なる王の世界に放り込まれたところを」
「えっ…?」
「オレたちも見た、例の一日だよ。そこに、赤ん坊を抱いた女の人がいたんだ。マナリルが見たのと同じ人だと思う」
リードァはぎゅっと眉を寄せた。
「…すっげー動揺してた。振り払って出てきたけど……戻った世界で、生きてたのはあいつだけだった」
「……ああ……」
だから、リードァは言ったのだ。『あまり気持ちのいいもんじゃなかった』と。
たった一人、一なる王の幻に打ち勝って、そして最後の一人として彼は死んでいった。
結末なら、最初から知っている。
だが、それでも……少しでも知っていれば、それだけ辛いのだ。
しゅんとしょげたマナリルの膝から、リードァが『輝ける遺志の書』を拾い上げた。
まじまじと見つめてから、その表紙をなでる。
——それは、どきっとするほど優しい仕草だった。
「…オレはさ、マナリル」
「はい」
「シトロ村のみんなを本当に家族だと思ってる。育ててくれた恩義とかじゃなくて、オレはあの村の子であって、それ以外の何者でもない。だから自分がどこの世界から来て、誰から生まれたとかは全く気にならねえ」
「…………」
「でも、だから本当の両親に感謝もしないかっていえば、また話が別なんだよな」
マナリルは顔を上げた。
目の合ったリードァが小さく笑みを浮かべる。
「だから、無理して話そうとしてくれたんだろ?」
「……気づいて…らしたんですか」
「オレじゃなくて、リウがな」
リードァは小さく肩をすくめた。
「さっきリウのとこ行った時にアトリの話が出てさ。アトリから言われたこととか教えたら『なんでそーゆーこと早く言わねーの!?』って怒られた。その時に」
「そうですか…」
「だからって、オレ自身は変わりねーけどな!」
「……リードァさん」
「親子3人、幸せそうだったんだろ?」
「は、はい。とっても……こちらの胸が苦しくなるくらい……」
「うん、それで充分だ」
にかりと笑う。
「だからさ、それ以上はいいんだ」
そして、マナリルの頭をぽんぽんと軽くはたくようになでた。
——この人は、分かっているのだ。
マナリルが、”母が我が子へ向けた最後の言葉”を伝えようとしたことを。
それが、マナリルにとっては他のことを思い出してしまってつらいということを。
さっき、『マナリルの気持ちは分かるから』と言っていたが——本当に、分かっていたのだ。
きゅ、と拳を小さく握り締める。
涙がこぼれても構わない。
泣いてしまっても、つらくなっても構わない。
そうだ。兄だって、自分に伝えてくれたではないか。
————伝えたい。
「リードァさん」
「ん?」
「愛してます」
「っ!?」
「と言ってました、お母様が。どうか幸せでいてくれますように、笑っていてくれますようにと。何度も、何度も」
やはり胸がつまって、涙がぽろりとこぼれた。
だが、構わない。
「最後まで、何度も…愛してる……と……?」
語尾が疑問系を残して途切れる。
「リードァさん?」
「あ、いやわりぃ! ちょっと不意打ちだったからビックリしただけで」
「え?」
「……ありがとな!」
両手が伸びてきて、乱暴に頭をかき混ぜられる。顔を下へ向かされて、リードァの顔が視界から消えた。
「(…え?)」
鳩が豆鉄砲を食らった顔、というのだろう。あんな表情は初めて見た。あんな風に赤面している顔も——
「(!!!!)」
伝えたいという気持ちが先行したばかりに自分がいきなり何を口走ったのか、思い出した瞬間にマナリルの顔が真っ赤になった。何の前置きもせずに……
「(そ、そんなつもりじゃなかったのに…!)」
せっかく直した髪があっという間にぐしゃぐしゃになったが、恥ずかしくて顔が上げられない。
頭が押さえつけられているのは好都合だが—
「(落ち着け私…!)」
すー、はー、と大きく深呼吸した瞬間、まったく同じタイミングで頭上から深呼吸する音が聞こえてきた。
*********
うにゃうにゃ言いながらリードァがマナリルの髪を直そうとしたのはそれからしばらく後で、やっぱりうまくいかず、マナリルはうにゃうにゃ言いながら自分で頭を整えた。
目の縁に残った涙をぬぐい、きっちりカチューシャを身につけた頃には頬の熱も引いていて、ほっとした気持ちで顔を上げた。リードァもどこかほっとした顔になっている。妙な空気になったらどうしようかと思ったが——いつも通り、だ。
「そんで結局、星の印がこのタイミングで変わったのはなんだったんだろうな」
なんでもないようにリードァが口にしたので、マナリルは首を傾げる。
少し考えてから、「このタイミングだからじゃないでしょうか」と口にした。
「どういうことだ?」
「さっきリードァさん、あの幻に出てきた人が一なる王の世界へ取り込まれたっておっしゃいましたよね」
「ああ。…あ! オレたちも一なる王の世界から脱出できたから!?」
「……だと思います」
なるほどなあ? とリードァが腕を組んだ。
「リードァさんだけ星の印が変わったのは……2つ、理由があると思います」
「2つも?」
「予想ですけれど。まず一つ目は、あの世界で一なる王の世界から抜け出したのが天魁星の方だけだったということ」
「それは……そうだな」
「そして二つ目は、その星の印は2人分だから…かと」
「2人目って、おふくろさんか」
「ええ。あの方も団長と呼ばれてましたから、天魁星だった可能性があります。だとすれば、あの方の天魁を幻に出てきた方が継いで…」
「それをさらにオレが継いだ、か。星を宿す者が天魁星だけ2人いたって考えればアリかもしれねーな」
「星の交代がそんなに頻繁に起きるとも思えませんから…」
「そうだな。うん、マナリルの言う通りだ。てゆーか、それでいい!」
リードァは、ぽんとベッドから飛び降りた。そのまま大きく伸びをする。
「あー! なんかスッキリしたなあ!」
「そうですか?」
「ああ。マナリルはやっぱすげえよ。読んでねーのに見えたんだろ?」
「は、はい…」
リードァがにかりと笑う。
「マナリルだから見えたんだろうな」
「え?」
「読み手の才能もあるだろうけど、それだけじゃなくて。伝えたかった相手はオレだけじゃねえと思うぞ」
「……あ」
死の間際に母から子へと送られた言葉。
どうか幸せでいてほしいと。
あなたのことを愛していると。
「……そう、でしょうか」
「そう思っとけ!」
明るく断定されて、マナリルは思わず微笑みを浮かべた。
真相は分からない。
なぜ自分だけに見えたのか。
なぜ読もうとしなかったのに記憶が流れ込んできたのか。
分からないなら、そういうことにしておいても良いだろう。
あなたを愛してると——母から子への言葉を伝える役目に自分が選ばれたのは、
自分も、母からその言葉を伝えたいと思われていたからだと。
過去の想いは、今に繋がる。
今の想いが、未来を紡いでいく。
遺志や願いは受け継がれ託されて、過去から未来へ続いていくのだ。
百万世界に広がる無数の時空の中で、受け継がれていく想いの中心に、今自分たちは立っている。
「あんたたちの想いは受け取った! オレたちが一なる王をぶっ倒してやるから安心しろ!」
リードァは、片手に持った『輝ける遺志の書』に拳を当てる。
室内に、パシンと軽やかな音が響いた。
PR